乱暴な我が子に疲れてしまったママに知って欲しい発達障害の話

並んだ子供たち

子育て経験のある方なら「魔の2歳」という言葉は何度も耳にしていると思います。

子供は2歳あたりから自我が芽生えて言うことを聞いてくれなくなったり、癇癪を起こして乱暴になる子もいます。

そしてその乱暴な感じがいつまでも続いたりすると、「うちの子、発達障害なんじゃ…」と不安になるママは結構います。

不安に思いながらも「子供ってこんなものかしら」と思っていたのが、小学生になり、親から離れてたくさんの子供たちと過ごすようになってから、やっぱりうちの子ちょっと乱暴すぎるかも!と焦ることがあります。(実際に周りであった話です。)

発達障害」という言葉に親たちはつい過剰に反応しがちです。発達障害と健常児はどれほどの違いがあるのでしょうか

私が自分の子供の成長過程で出会った親子のお話や、我が家の話を交えて、発達障害についてお伝えしたいと思います。


発達に遅れがあると指摘されたとき涙が出ました

まず少し我が家の話をします。

言葉が遅いなとは思っていたのですが、元気に育っているし上の子たちを追いかけたり楽しそうにしていたのでまったく心配していなかったのですが、1歳半検診で末っ子が発達の遅れを指摘されました。

発達障害」という言葉が頭をよぎりました。

このときの私の気持ちは、どうしていいのかわからないのと、なんだか自分がすごく大きな失敗をしてしまったような気持ちで涙が出ました。

妊娠中に違う過ごし方をしたら結果が変わっていただろうか。新生児のときの接し方がいけなかったのかも。もっともっとたくさん構ってあげていれば…。などなど、いろんな思いが湧き出ました。

みんなが平均なんてなかった!親子グループでの出会い

検診ではまず、公的な療育機関に相談に行くようにうながされました。専門家に相談できますのでなかなか良い経験になります。発達に遅れがあってもなくても、機会があれば相談してみると良いと思います。

我が家の末っ子は「発達障害」という名称はつけられなかったものの、やはり「発達に遅れがある子」という判定をされ、親子グループの活動への参加をうながされました。

親子グループは、週一で公的な療育機関で、同じように遅れがある子たちを集めて、遊びを通して発達をうながそうというものです。

まだ幼稚園にも入れない年の子たちなので、こういう機会はとても重要です。

個人的に、遅れがあってもなくても同じ年頃の子たちと遊ぶ機会があれば参加するのをおすすめしたいのですが、療育目的の親子グループの活動は、発達を促すような遊びを教えていただけるのでとても参考になります。

うちと同じように、ぱっと見は健常児となんら変わりないのに、周りの子に合わせたり周りを観察することができずにひとりでつっぱしる子がいたり、ダウン症の子がいたりと、様々でした。

発達障害について知りたい!本で勉強したり人から話を聞いたり

正直に言って、私はダウン症児に対する偏見がありました。なぜなら、ダウン症でありながら健常児と同じように生活できている子を身近では知らなかったからです。

ですが、親子グループでご一緒したダウン症のお子さん2名は、うちの子よりも全然しっかりしていましたし、言葉の理解もできていて、ダウン症の子=障害がある、という認識は傲慢であったと反省しました。

そしてそんないろいろな子供たちの様子を見ていく過程で、自分にできる範囲で、本を読んだり、先生方のお話を聞いたりして勉強していきました。

我が子のためももちろんありますが、自分が今まで思っていたことが間違っているならば、それを正したいと思ったからです。

親子グループでは療育に関わる先生方とお話する機会もできるので、発達に遅れのある子に向いている遊びを教えていただけるだけでなく、参考になる本なども紹介していただきました。

それらの本で、私は今まで発達に遅れがあるということに対して、自分が無意識に差別的な気持ちを持っていたことを知りました。

発達障害の子と健常児の区切りは実はすごくあいまい!

子供の「乱暴さ」についてお話する前に「発達障害」と呼ばれるものについてもう少しお話させてください。

「発達障害」と聞くと健常児とは一線を画す存在と思われがちです。実際私は、知識を得る前はそう感じていました。

ですが、冷静に考えればわかることですが、人間の能力において、そんな明確な線引きはありえません。

例えば、足の速い子と遅い子がいたとして、それは個性として片付けられます。絵の上手な子と下手な子の場合も同じく、個性として片付けられます。

それが、周りの状況をしっかり観察できる子とできない子となると、観察できる子はしっかりしている印象になり、観察できない子は、「空気が読めない子」、度が過ぎると「発達障害の子」と分類されます。

でも改めて考えてほしいのですが、「周りを観察できる子」と「空気が読めない子」と「発達障害の子」の境目はそんなにはっきりしているでしょうか。

それは誰の目にも見えないものです。なんとなく判断されているし、専門機関にいけばそれを数値化してくれますが、その基準自体もしょせんは人間がつくったものです。

本来はただの「個性」であるものなのに、社会生活で支障があるかないかを基準に人間が判断して名前をつけたものの一種が「発達障害」だと思います。

世間は、健常児を白として、発達障害の子を黒として扱います。

しかし、本当は大半の子供たちがその間のグレーゾーンにいます。健常児だけどすごく行動がゆっくりしている。発達障害と認定されて療育に通っているけど知能指数は高い。

子供だけでなく大人を見ても同じなんです。大人も子供も、ある部分で弱いけれど、別の部分ではすごく輝くものを持っている。それになんという名前をつけるかという問題だと私は思います。

我が家の場合を見ても、たまたま遅れがあると指摘された末っ子ですが、では上の子たちがまったくなんの遅れもないかと問われたら、それぞれの「個性」と呼ばれる範囲の中で、彼らなりの弱点があります。

たまたまそれが社会生活の中では障害にならない程度だったから、「発達障害」と呼ばれていないだけだと思います。

あなたのお子さんがふつうに学校に通っているとして、その子は本当に「みんなと同じ」ですか? むしろ、「みんなと同じ子」って実在してますか?

そしてあなた自身は誰かと同じですか?

いじわるしてるわけじゃなかった!なぜ乱暴をしてしまうのか

私個人の、発達障害の認識についての説明が長くてごめんなさい。
やっと「乱暴な子」についてお話するところまできました。^ ^

「乱暴な子」ってどんな子?と聞くと、「いじわるな子」という答えが返ってくることがあります。では「いじわるな子」ってどんな子?

「いやだよ!」って言ってるのにしつこくする子が「いじわるな子」だ。という話を耳にしました。

その子は本当にいじわるな子でしょうか?

就学前や小学校低学年の子供を想像してください。
「いやだよ!」ってお友達に言われてもしつこくしてしまう子がいたとして、その子はいじわるな気持ちで行動しているでしょうか。

大抵の場合、それはただ「いっしょに遊びたい!」から、しつこくしてしまうんです。

そしてそれがいじわるに見えるほどの程度になってしまうのは、例えば「自分の感情をおさえるのが苦手」だったり「他人の気持ちを察するのが苦手」だったりするだけで、決して「相手を嫌な気持ちにさせてやろう」などというネガティブな気持ちから発していることではなかったりします。

程度として、「大人から見て度が過ぎている」と「なんらかの問題のある子」に認定され、度が過ぎなければ「少しわがままな子」で終わるのです。

ここがとても重要ですので忘れないでいただきたいのですが、「基準」は「誰かが勝手につくったもの」なんです。

大人の感覚だけで判断できない自分というものに対する認識

大人でも子供でも人間はみんな、自分以外の感覚を想像することは難しいから、周りのひとがいう「平均」を拠り所として判断していきます。

あまりにも判断できないから何かを基準にしたいけど、他に基準がないから仕方なく人間が数値を割り当てているように、私は思います。

でも実際のところ人間はそんな数値や判断では測れないことがたくさんあります。

「乱暴な子」と称される子は、実際に周りの子に対して、何もないのにたたいたり、キレて暴力をふるったりしているように見えます。実際そういう場合もあるのかもしれませんが、すべて

ではその子がそんな行動になる理由について考えてみましょう。

うちの末っ子の療育でいろんなことを学んでいく過程で、作業療法について学びましたのでそれに付随することについて書いておきます。

俗に言う「乱暴な子」が乱暴する理由

例えばあなたは自分の体の動きを認識して、右手を上げて、遠くの友達に「おはようー!」と声をかけて、近くにいる友達の肩をポンとたたいて「おはよう!」と声をかけます。

では、自分の体の動きの認識が、平均よりも下回る子がいたとします。その子は、他人と比べられないので、自分が平均だと思っていますから力を加減しようとは思いません。

ですが、実は体の動きの認識があまりできておらず、平均と比べれば筋力の制御もできていません。

その子は遠くの友達に手をふったつもりで手を上げます。その瞬間、近くの人たちがびっくりするくらいの大きい動作をしていたりします。

そして、近くの友達の肩をポンとたたいたつもりでいますが、自分の筋力の動きを認識することが苦手なために、相手からすると「たたかれた」と思われるような力を込めてしまいます。

そのときにたまたま、動作と一緒に「おはよう!」と声をかけるつもりだったのに、挨拶の声が小さかったがために、肩をポンとされた子は「何もしてないのにたたかれた!」と思ってしまう事態におちいります。

もちろん、すべての乱暴な子がこの例に当てはまるわけではありません。ですが、こういった認識の違いが普段の生活の中に溢れていることをどうか知ってください。

まとめ

私が言いたいのは、「障害があるのは本人のせいじゃないから乱暴しても許してあげて」という話ではありません。

我が家の末っ子は、発達に遅れがあるものの、筋力は人並みであるがために、「乱暴な子」の烙印を押される可能性がありました。

ですが、現在までのところ、結果的にはそうならずにいます。

苦手なものは苦手なもの。それを個性として認め、それによって問題を引き起こす可能性があるのなら、本人の得意な部分で補っていけば良い。

それが、私が子供たちに日々伝えようとしていることのうちのひとつです。

これは発達の遅れの話だけではなく、生きていく上でのすべての「苦手」に当てはまります。誰だって苦手なことはある。「苦手だから仕方ない」で終わらせずに、それをどう補っていくかを考えることで人間は成長するものだと思います。

あなたが日々生きていることだけでいっぱいっぱいなら何も言うことはありませんが、もし少しでも余裕があるなら、知って欲しいのです。

あなたが思っている常識は、あなただけのものであって、みんなの常識ではないということを。そもそも「みんなの常識」なんて存在しないということを。

発達が平均ではない子たちは、それぞれに居心地の悪い思いをしていたりします。それに対して手助けできる存在があるとしたら、それは「その物事について理解している人」だけです。

発達が平均ではない子供たち」は、すべての子供たちです。
そしてすべての大人たちでもあります。

最後までお読みいただきありがとうございます。
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