不登校の子供を変えようとする前に、親である私がすべきこと

不登校の子供を変えようとする前に、親である私がすべきこと

久しぶりの投稿ですが、子も私も元気にしております。

学校大嫌いな2番目ちゃんは相変わらず学校が嫌いです。春から中学生になり、教室に入れた初日に、クラスの子のなにげない言葉でショックを受けて帰宅後に泣いて、それ以来教室に入れなくなりました。

ただ、学校には行けています。校舎内に、不登校の子などを受け入れてくれる教室があるので、そこで過ごしています。そこに行くのはつらくはないようですが、同級生がたくさんいる「教室」に入ることはどうしてもできないようです。

今日は、最近の子供の様子や、親である私自身が思うことを、備忘を兼ねて書いてみたいと思います。


不登校の我が子に「変わってほしい」と望み続けている

子供が学校に行けなくなってきた小学校3年生から、私たちはずっとがんばってきました。「私たち」と言っても、親にできることはそんなに多くはなく、本当にがんばってきたのは子供自身だと思います。

うちの場合は、本当にがんばったと言えるほど苦しんでもいないようにも見えてしまうのですが、それでも、自分にできることと違うことを望まれ続けているのはつらいことだろうと想像しています。

親の私から見れば、学校に行かないことは逃げているように見えることもあるし、やる気が足りないように見えることもある。

でもその人の心の中にどれほどの辛さがあるかは、いつだって、誰だって、本人にしかわからない。

親からしたら、「このままだとこの子は何もできなくなってしまうかもしれない」「自分が死んだ後にちゃんと生きていけるのか」「自分で生きる力を身につけられるのか」などいろいろな心配が心の中で渦巻いています。

みんなと同じであることが正しいかはわからない。でも世の中は、多くの人がスムーズに生きていけるシステムになっていて、そのくびきから外れてしまうということは過酷な道です。

できれば楽に生きてほしい。苦しまずに生きていけるようになってほしい。そう願うとどうしても、みんなと同じようにできるようになってくれたら安心。という気持ちにつながってしまいます。

「学校に行けない」という状態の今よりも、「みんなと同じことができる」状態のほうがきっと生きていきやすいから、「今の我が子」から「みんなと同じことができる子」に変わってほしいと望み続けてきたように思います。

「変わる」ってどういうことなのか

少し仕事の話になります。
たまたま自分が業務効率化の仕事をすることになり、人間がいかに「変わることが難しい」生き物であるかを痛感しています。

大人なら話せばわかると思っていたのですが、実際には、頭で理解する「組織から変わってほしいと望まれている」という意識と、本能的に「変わるのを恐れる」思いはまったく別なのだなと感じています。

「これまでやってきた業務形態を変える」というものに対する抵抗はほとんど無意識なレベルなのだと思います。人間て本当に「変わりたくない」生き物なのです。

多少やりづらいことがあったり、不自由があったりしても、これまでのやり方でなんとかなっていたのだから、今新しいことを始めるよりも、ずっと同じことをしていきたい。

特に女性の場合は、本能的に巣を守っていますから、状況や環境が変化すれば巣の守りが甘くなるかもしれず、「変わること」に対する抵抗は余計に大きくなると思います。

変わらないといけないという思いがある。でも、それに抵抗する本能がある。本人だけや、その場にもともといる人間だけでは「変わる」ことはとても難しい。

人によっては「生まれ変わる」くらいの覚悟が必要になることなのかもしれません。

人が「変わる」ためには何か必要か

自分自身の人生を振り返ってみて、「自分の人生を変えた」出来事について考えてみると、それはもう本当に大変で、そもそも「変わる」ということがどういうことか理解するまでに時間がかかりました。

より良いほうに変わりたい。
そういう思いを持っている人は多いと思います。でも実際に変わるのはとても大変ですよね。

断捨離をしたいと思いつつもなかなか踏み出せなかったり、パートナーとの関係性を改善したいと思ってもどこから手をつけていいのかわからなかったり、新しい仕事をやりたいと思っても何から始めたらいいのかわからなかったり。

私自身が変わったときはどうだったか。
私の人生の帰路には、ひとりの男の子の死がありました。

私の人生の変化と、この男の子は直接は関係ないはずですが、自分が知っているひとりの子供の死が、私がそれまで持っていた考え方から変わるきっかけでした。

なんの罪もない子供の死を知った日に、私はそれまでの人生の中で一番強く、「昨日までの日々とこれからはもう違うものになっていく」と感じました。「もう今までと同じではいられない」「見てみぬふりをしてきた自分の人生と向き合わずに死んでいくことはできない」と。

そしてそう感じた数日後には、否応なく自分の人生と向き合わされる出来事が起きました。これまでの人生が大きく変わり、死を考えるくらい悩み、食事ができなくなり、食べても吐いてしまったりおなかをくだしたりして、毎日痩せていきました。

このままでは動けなくなって死んでしまう。子供たちを守れなくなってしまう。と思ったときに、なんでも良いからこの状態を打開する術をさがさなくてはという思いから、人に相談したり、自分で勉強したりして、その苦しさから脱出する道を必死にさがしました。

そしてその苦しい場所から出たときには、生まれ変わるというほどにすべてが変わるわけではなくても、確実にそれまでとは違う考え方が身についていました。

人が「変わる」ためには、どうしても変わらなくてはいけないという状態や、それを望む強い気持ちが必要なのだと思います。

親として私にできることはなんなのか

自分自身に起きたことを振り返ると、変わることがどんなに大変だったか身に染みてわかります。

しかも、それで変わったのがどれくらいの大きさだったかはわかりません。もしかしたら、不登校の子供が学校に行くようになることは、私が経験した変化よりももっと大きいことである可能性もあります。

子供に変わってほしいと望んでいるのは私です。それはずっと「生きていけるようになってほしい」ということにつながる「みんなと同じに」を望んできたように思います。

家にいて、人とのコミュニケーションに難がある状態から、何か、どこか、変わる必要があるのでしょうが、どう「変わる」のが良いことなのかは今の時点ではわかりません。

親である私が望むことと、我が子に本当に必要なことは違うかもしれないからです。

でもどうなるとしても、ただ心に閉じこもっている状態を続けることはできません。人間は人の中でしか生きていくことができないからです。

ただ「変わってほしい」と伝え続けることも無意味ではないと思います。人間として思いを伝えることは大切ですが、大人でさえ、「変わる」ことはとてもとても難しいのに、子供に対して「変わってほしい」と望み続けるだけしかしない、できないというのはちょっと違うなと思い始めました。

子供を変える前に、まず私が変わらないといけないのではないか。

このタイミングで業務改善の仕事をすることになり、大人に変わってもらうお手伝いをすることになったのも、何か意味があるのだと思います。

そういうふうに人生のいろいろなことはつながっているし、私がまず変わることができたら、それが子供につながっていくこと部分もあるのではないかと考えています。

自分自身の何をどんなふうに変える必要があるのか、これから考えていかないといけないと思います。

思い込みにとらわれずに、いろいろなものをちゃんと見て、考えて、吸収していったら、きっと人生のいろいろなものがつながって、少しずつ良いほうに進んでいくと信じたいと思います。

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